|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 田 : [た] 【名詞】 1. rice field ・ 中 : [なか] 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among ・ 克己 : [こっき] 1. (n,vs) self denial 2. self control ・ 己 : [き, つちのと] 【名詞】 1. 6th in rank 2. sixth sign of the Chinese calendar ・ 詩 : [し] 【名詞】 1. poem 2. verse of poetry ・ 詩人 : [しじん] 【名詞】 1. poet ・ 人 : [ひと] 【名詞】 1. man 2. person 3. human being 4. mankind 5. people 6. character 7. personality 8. true man 9. man of talent 10. adult 1 1. other people 12. messenger 13. visitor 1
田中 克己(たなか かつみ、1911年(明治44年)8月31日 - 1992年(平成4年)1月15日)は、日本の詩人、東洋史学者。 ==生涯と業績== 大阪府出身。1934年東京帝国大学東洋史学科卒。1932年保田與重郎、肥下恆夫、中島栄次郎、松下武雄、小高根太郎、杉浦正一郎、服部正己ら大阪高等学校 (旧制)同窓生と文芸同人誌『コギト』を創刊。1936年堀辰雄の推挙により詩誌『四季』(第2次)同人となり、津村信夫、神保光太郎と共に編集にも携わった。1941年詩文集『楊貴妃とクレオパトラ』で第5回北村透谷記念文学賞受賞。 昭和十年代の詩壇において主に『コギト』『四季』『文藝文化』など抒情詩精神を標榜する同人誌を中心に活躍した。初期にモダニズムの影響を蒙るも、所謂『日本浪曼派』の文化圏にあって(彼自身は同人ではない)、同じく硬質の抒情を能くした伊東静雄のライバルと目された。 1942年1月文士徴用軍属の第二陣として北川冬彦、中島健蔵、神保光太郎らと共に南方戦線後方(シンガポール・スマトラ)へ派遣される。年末帰国。1945年3月応召入隊、二等兵として河北省にあり。敗戦とともに現地除隊。北京、天津へ逃れ1946年2月帰還。 戦後は天理図書館、滋賀県立短期大学、帝塚山学院短期大学(同僚に杉山平一、小野十三郎あり)、東洋大学を経て、1959年より成城大学教授。この間、天野忠、井上多喜三郎、小高根二郎ら関西の詩人達と詩誌『コルボウ』『詩人学校』『骨』『果樹園』を創刊して交わる。敗戦により皇国史観を捨て1962年キリスト教(カトリック)に改宗。晩年、『四季』を再刊主宰した(第5次)。1982年定年退任、名誉教授。 博識な語学と癇癪が持ち前であり、詩人とは別に東洋史学者としての顔をもつ。中国漢詩に造詣が深く、李白をはじめとする多くの訳書・評伝があるほか、余技のドイツ語においてもハイネの訳詩集が版を重ねた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田中克己 (詩人)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|